日本人が知っておくべき台湾史-二二八事件とは?

空に向かってと伸びる木 台湾史

2月も末になると、連日25度以上の暖かい日が続く。今日2月28日、台湾は祝日でした。

日本による統治の終了と、中国本土への「光復」から僅か2年後の1947年2月28日、台湾の記憶から決して拭いされることができない事件が起こりました。どんな事件なのか?なぜ起こったのか、台湾に何をもたらしたのか。日本人が知っておくべき台湾史の一つ、「二二八事件」について。

本内容は下記資料を引用、参考にしています。逐次出典は示しませんが。
・周婉窈著、濱島敦俊監訳、石川豪・中西美貴訳『図説台湾の歴史』平凡社2013
・二二八事件紀念基金會https://www.228.org.tw/228museum_exhibition-view.php?ID=219

事件に至るまでの背景-日本統治と台湾の人々

1945年8月15日、台湾の人々は玉音放送にて戦争の終結を知らされました。日本の統治期間は1895年に始まり、およそ50年間、つまり全く中国本土の景色を見たことがない世代がすでに誕生していたと言うことを意味します。

台湾の人々は、この戦争に、日本とともに敗退したのか?あるいは植民地支配からの解放とともに、勝利したのだろうか?台湾人の戦争経験は、一面的に理解することはできない。

清朝から日本への割譲時、台湾人の抵抗は相当なものでした。台北と台南のみが無血開城したのを除き、北の澳底から台南までの進軍に、近代的な装備を揃えた日本軍でも4ヶ月を要したほどです。

1895年11月の「全台平定」後も各地で抵抗運動は続きました。1915年の漢民族による抵抗運動である「西来庵事件(余清芳事件)」や、原住民による1930年の「霧社事件」などが知られています。

こういった統治への恐怖、あるいは植民地支配と台湾人の二等国民扱い(給料格差、高等教育からの排除)に対して不満を募らせていた台湾人には、中国祖国への復帰=「光復」が、ある種のユートピア的な色合いを帯びていたはずです。

1945年10月17日、台湾接収の為の国軍が基隆に到着した際、植民地支配からの解放と新たな社会建築の始まりを期待し、全台各地から人々が駆けつけ、出迎えました。しかし、その期待はあまりにも早く、儚くも打ち砕かれてしまったのです。

「光復」と人々の「期待」

隙間から望む二二八記念公園

二二八事件を後世に伝える呉濁流はその著書『台灣連翹』で当時の国軍の姿をこう回想しています。

「 受這隆重歡迎的七十軍,卻非常寒酸。每個人都背著一把雨傘,看來格外稀奇。有些還挑著鍋子、食器、寢具等。 」-盛大な歓迎を受けた第70軍は、しかしながら非常に見すぼらしかった。皆背中に雨傘を背負って、見た目はかなり変わっていた。あるものは鍋や食器、寝具を持っていた。

呉濁流『台灣連翹』

10月25日、陳儀を台湾省行政長官とする「台湾行政長官公署」が発足し、台湾総督府に取って代わって最高権力となりました。行政長官公署は司法・行政・立法権を陳儀一人に集中させ、そのうえ警備総司令も兼任しており、総督府以上に強い権力を握ったことになります。

さて、この陳儀による統治によって、台湾の人々が描いていた復帰への興奮は一瞬にして冷めていきました。その腐敗と悪政の様子は、当時の台湾人の間で口にされた「狗去豬來(犬が去って豚が来た。犬:日本、豚:国民党政府。犬はうるさいが番犬になる。豚は食ってばかりで役に立たない」という言葉に見て取ることができます。

台湾行政長官公署による統治の実態

文化面から見ていきますと、当然日本統治時代は日本語教育がされていたわけです。日本統治時代の台湾人の就学率は1935年で33.1%、1944年では71.3%の水準にまで上がっていました。

日本の教育を受けて育った日本統治期第2世代は、言うまでもなく日本語による読み書き能力の方が高かったのでした。

何と比較して高かったかと言うと、それは中国語ではありません。なぜなら、もともと台湾ではその出自によって、台湾語・客家語・原住民語を話していたからです。中国語を理解するためには、中国語を外国語として新たに学び始める必要があったのでした。

しかし、国民党政府は台湾摂取後、わずか一年で新聞から日本語欄を廃止しました。

まともな國語=中国語を話せない人々は貶められ、日本の教育によって奴隷根性を植え付けられたものとして揶揄され、新社会の建設から除外されてゆき、国民党政府のもと、またしても二級市民として周縁化されていったのでした。

経済面では統制をし、酒・タバコ等5種の専売制および塩・砂糖・石灰の半専売制を継続、米穀等は官員が公定価格で買い上げをました。さて、買い上げた米はと言えば、国共内戦中の大陸へ横流し、官員は暴利を得ていました。そのおかげで二毛作ができる台湾の米の値段が高騰,僅か一年の間に400倍となり、ハイパーインフレを巻き起こし、経済の悪化で失業者が溢れ、物価の高騰で人々の生活を圧迫しました。

日本が経営していたインフラを含めた公共事業は「台湾省接収委員会」によって行政長官公署のもと国営・公営事業に組み入れられ、また一般企業・私有財産などは「台湾省日産処委員会」によって接収されましたが、処理委員会幹部等が私的に所有するなど、横領行為が蔓延としていた。

また、主要産業のポストにはことごとく外省人(戦後中国大陸から移民してきたグループ)がつきました。

新聞の台湾の祖国への復帰に対して抱いた熱情は、このような政治・文化からの締め出し、腐敗の横行によって、台湾の人々の不満は募ってゆくばかりなのでした。

二二八事件

1947年2月27日 家計を支えるべく闇タバコを密売して生計を立てていた林江邁が太平町で専売局取締官の傅學通に摘発された。嘆願する林江邁と取締官は小競り合いになり、官憲の一人が林江邁の頭部を銃で殴打しました。

これを見た地域住民が取締官に反撃、傅學通は逃走のため威嚇射撃を行なったのが、通行人であった陳文渓に命中し、翌日に死亡しました。

このニュースはあっという間に民衆の間に広がり、翌朝、人々はボイコットを訴えかけながら行政庁官公署を目指しました。この時4,500人近くの人々が集まっていたようです。しかし公署前にはすでに兵士が待機しており、民衆に向け容赦無く発砲を始めたのでした。

その後民衆は台湾放送局(現在の二二八記念館)に押し入り、全台湾に向けて蜂起を呼びかけました。2/28日から3/8日の間、全台湾で人々が蜂起し、日本語や台湾語を理解しない外省人がその報復の対象となりました。

この民衆蜂起は、特にリーダーの存在しない、非組織的な蜂起でしたが、事態の収束のため台湾人エリートたちは「二二八事件処理委員会」を組織し、行政長官公署との交渉の窓口になりました。

行政長官陳儀は、処理委員会の要望を聞くそぶりを見せながら時間稼ぎをし、結果、その要望の一切を罪の証拠とし、南京中央政府の蒋介石に鎮圧部隊の派遣を要請しました。

鎮圧軍の到着と二二八大虐殺

野に咲くユリ

3月8日、中央政府の派遣した軍隊が台湾に到着、街路掃討が一斉に始まり、二二八大虐殺が始まったのでした。3月9日、陳儀は厳戒令を布告し、一斉掃射を開始しました。その犠牲者は1万8000人~2万人ほどにのぼると研究者間では合意されています。

各地の処理委員会は悉く処罰され、弁護士、医師、記者等のエリート層たちは何かに理由をつけて逮捕されました。ただでさえ日本統治時代、高等教育を受けることが困難であった台湾人にとって、これらの人材は非常に貴重なものでした。しかし、二二八事件では、その多くのエリート層が犠牲になったのでした。

その後台湾では40年間にわたる戒厳令が惹かれ、思想を奪われ、知識と言語を奪われた台湾は、恐怖のもと、黙り込むことを強制させられたのです。

戒厳令のことを口にするのはタブーとされ、政治的な組織、民間グループを組織することは、仮に何もしていなくとも、反逆罪としてとらわれることになる、「白色テロ」の時代が幕を開けたのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました